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茨城の納豆小話



【茨城の納豆のルーツ】




日本の納豆発祥の地について。これは諸説あります。その中でもメジャーなものに、水戸説と横手説があるようです。私は、この二つを比較した場合、後半の横手説の方が有力と考えています。理由は後述。いずれにしろ、水戸説の方は、水戸納豆の始まりはとして間違いないでしょう。弥生時代の稲作文化と共に発展したという説もありますが、よく知られているものは、この二つです。

まずは水戸説。
平安時代後期、後三年の役(1083年〜1087年)で、奥州平定に向かう。1083年、源義家[1039生〜1106没]は途中、現在の水戸市渡里にあった宿の長だった、一盛長者の屋敷にて宿営を行い、豪勢な歓待を受けた。帯同していた兵士が持参した、藁に包んだ馬の食料である煮豆が発酵して糸を引いているのを見つけ、試しに食べてみたら美味だった。そこで、義家に献上したところ、大変喜ばれたので、将軍に納めた豆という意味で「納豆」と名付けられ、付近の農家に広まったという。

横手説。
後三年の役の際、義家は羽州の豪族・清原家衡に戦いを挑みます。しかし、現在の横手市付近で大雪に見舞われ足止めされて食糧難に陥ります。困った義家は、付近の農民に煮大豆を供出させ、時間がないので藁で作った俵に入れ、行軍しているうちに香りを放ち、糸を引くようにになった。これを試しに食べたところ、美味だったため食用とした。そして、それは農民にも広まった。

大手納豆メーカーのヤマダフーズは秋田県に立派な石碑を建てたそうです。横手市の金沢公園という場所らしいです。

戦役後に、義家は再び一盛長者の屋敷に立ち寄り、行きと同様の歓待を受けますが、ここで義家は疑心暗鬼になります。一盛長者の二度にわたる豪勢な接待に、この財力は後に災いになると考えたのです。その結果、一盛長者の一族郎党を皆殺しにしてしまう。ここまで疑い深い義家が得体の知れない発酵煮豆を食べたでしょうか?水戸説を否定する理由です。また、この史実では義家が、宮城県の多賀城でも歓待を受けています。これと混ざっていないか?宮城県の多賀と茨城県の多賀郡。混同する要素はありそうです。

この石碑の裏手に集落があり、見事な土塁や堀が残されております。一部は太陽パネルで破壊されていますが、状態は良好です。これだけの遺構が残りつつも、城郭としての説明はありません。そのための蛮行でしょう。勿体ない。水戸市の中世城郭の中でもイチオシです。

茨城県の遺跡マップでは、長者山城の跡地となっています。そして、一盛長者とは関係がありません。1000年前で、こんな立派な城郭にはならないためです。

写真の碑を物語るものは現存しませんが、その600年後の中世時代の長者山城の遺構はよく見えます。


  



2021/04作成